【EVENT REPORT】「ことぶき協働フォーラム2021」開催しました! ①基調対談のご報告

 3月6日、「ことぶき協働フォーラム2021」を、YouTubeライブで配信する形で開催しました。全プログラム12:30~17:00の中で、初めに行った「基調対談:寿の人々の軌跡と奇跡、その魅力に包まれた日々」の開催報告をいたします。

 

当フォーラムについて
 ことぶき協働スペースは、横浜市健康福祉局との協働で、2019年6月にオープンして以降、開かれたまちづくりの拠点として、寿の住民、地区内外の活動者、大学や企業の皆さん、多くの方々と出会い、交流し、対話を重ねてきました。日本の高度経済成長を支えた労働者の皆さんが暮らしたまち、寿地区には語りつくせないほどの涙と苦しみの軌跡があります。
 その中で築かれたまちの魅力とはなにか、人々の魅力とはなにか、また、これからの寿地区はどう進んでいくのか。このフォーラムでは、「多様性」や「共生社会」を基軸にご一緒に考えます。寿地区からの発信が、オンラインでつながった皆さんの地域での取組と響き合うこともあるかもしれません。共に地域や社会をつくる仲間として、これからの連携や協働に活かされることを願ってお届けします。

この配信の様子は、YouTubeに保存されていますので、いつでもご覧いただけます。
→ 3/6の配信

  
 
 

基調対談」ゲスト紹介

◆加藤彰彦
 ペンネーム「野本三吉」のお名前で、多くの著作を世の中に出されている。1972年から10年間、寿生活館ご勤務時代に、寿の人々と体当たりの交流を重ねられ、そこから住民とともに学び合う多様な場が生まれた。住民の生活の軌跡をたどった「個人史、生活者」は膨大な記録であるが、ことぶき協働スペースの大切な蔵書の一つである。
 このフォーラムのテーマに使わせていただいた「異なるゆえに事成る」のフレーズは、加藤さんのご著書から使わせていただいた(謝意を伝える)。多様な場面で「共生社会」の種をまいてこられたが、その一つとして、横浜市立大学や沖縄大学で教鞭をとられ、沖縄大学学長や名誉教授としてもご活躍された。現在お住まいの地域では、老人クラブの活動に尽力されている。

◆村田由夫
 村田さんは1968年から寿と関わり、もう53年、半世紀にわたって寿の人々と手を携えてこられた。
 村田さんと言えば1998年に出版された「良くしようとするのはやめたほうがよい」という名著があり、この地域で活動する人の必読の一冊とした大事にされている。昨年10月にもご所属の神奈川県匡済会出版の「寿に暮らす人々あれこれ」も、協働スペースの大切な1冊。出会えた方一人一人への思いや寿地区への深い愛着に魅了される内容である。寿地区自治会長、NPO法人市民の会寿アルク、寿クリーンセンターの理事長として、多くの活動を支えておられる。

<聴き手>
◆高沢幸男
 このプログラムには特別に、聴き手として、高沢幸男さんをお招きした。2月27日、プレイベント「トークセッション:路上で生きるということ」のゲストとして貴重なお話を聴かせてくださった。寿支援者交流会の事務局長のほか、横浜市や神奈川県、また全国の支援者交流ネットワークに参加しておられる。ゲストのお2人より少し若い世代だが、お2人の活動をより身近に見てこられた立場で、このプログラムを進行していただく。



自己紹介とご自身がされてきたこと

加藤彰彦さん

 寿と関わったのは1972年~82年、30になったばかりの年からドヤに住んで一緒に生活した。元々は小学校の教員をしていた。僕らが大学を卒業する当時の1960年代は、安保闘争があった時代で学生たちは当然のように、時代を変えなければいけない、戦争のない安心して生きられる社会にしたいという思いで運動していた。そういう時代を作るのは、学校の先生じゃないかと思い込んで小学校の教員になった。が、教育は文部省や国が決めた内容を子ども達に伝える現実に、本来子どもを育てるというのは地域の生活の中でみんなで育てていくことではと思い、地域って一体なんなんだろうと、地域の中で暮らすというのはなんなんだろうと、4年で教師を辞めた。

 その当時は、世界中を観たかったが、丁度小田 実さんが『何でも見てやろう』という本を出して世界に行きたかったが、いきなり世界でなく、北海道から沖縄まで4年くらいかけて教師をやめてから回って歩いた。求めていたのは、地域でみなさんがどんな暮らしをしているか。みんなが一緒に暮らして生活を成り立たせていくモデルをあちこちで見た。共同体は、普通の地域から外れたところにあるところが多かった。「新しい村」とか「山岸会」とか。そこで、まちの中で共同体はできないのだろうかと考えていた。そんな中、横浜に戻ってきたら、たまたま僕の中学時代の恩師が横浜市の青少年課長をしていて「寿町で、学校に行かない子ども達がいっぱいいるがそこで仕事せんか」と声がかかった。これが僕にとっては大事なことかなぁと思って、教師ではない形で地域の中で、子ども達と一緒にやりたいと思い、寿町に職員として入った。それが30才。
 最初は、地域の子ども達と出会うことから始まったが、同時に「生活館」は相談活動で、地域の方たちがいろんなこと、病気になったとか食事が取れないとか喧嘩だとか、いろんなことで相談に来るので、その相談にのることが中心になった。子ども達のことをやりながらまちの実態をはじめて知ることになり、びっくりするような中身だった。体の具合が悪い人が次々に来て、病院にかかれないがどうしたらいいか、というような相談もとても多かった。字が読めない、書けないという人もいた。びっくりしたが、みんなで勉強会するような場所、話し合いをする場所を作りたいと思って、まちの中で「自由に寿と自分を語る会」、そういう小さな集まりを、夜、仕事から帰ってきた後みんなでやろうということで始めた。後に「寿夜間学校」という名前なる。字が読めない方には「識字学校」、あいうえお教室みたいなことをやろうということで始まっていく。10年間様々な形で住民との交流がスタートした。

 

村田由夫さん

 1958年に寿に来た。神奈川県匡済会が寿地区に、寿福祉センターという保育所、診療所、相談所の機能を持った施設を開設し、相談員としてこないかと声をかけられたのがきっかけ。学生の頃、どうやって生きればいいんだろうとずっと考えていて、就職のこととかはほぼ考えてなかった。振り返ると、仕事に行く、会社に勤めるというイメージが自分の中に全くなかった。学生時代に、農業を一時期志していて、3年間特に夏を中心に何か月間か農業をしているところに住み込んで、色々な経験をした。しかし、農業は自分が考えていたほど甘くはなくかなり厳しい状況だった。自分が倫理的な、人間がいかに生きるかということをいやというほど、考えさせられ、結局農業は断念せざるを得なかった。卒業を迎えて、進路が定まらず、社会事業大学が併設された社会事業学校の専修科に入ることになる。

 そこで、学生時代の友人と山谷のドヤ街の近くに遊びにいったとき、山谷のまちを歩いた。夕方、二人でまちなかを歩いていた時に強い視線を感じた。広い四つ角に多くの労働者が集まり、私たちの方をじっと見ていた。かなり熱い怨念のこもったような視線、そう思ったときに、全身がかぁーっと熱くなった。その時に、こういうところで働きたいと思った。実は私が生まれた実家は村田工務店、多くの日雇い労働者、出稼ぎ者がいた。自宅の半分がそういう方々の住居になっていたため、小さいころから労働者と関りがあった。小さいながらもいろんな方の雰囲気とか一人一人の生活の大変さとか、ある家族の悲しさとか、そういったものを感じていた。今思うと、そういうものが重なって、労働者のまちで働きたいとつながったのかなぁと思う。
 そんな訳で念願叶って、匡済会から寿福祉センターの誘いをうけたのがはじまりで、私はとても運がよく、1968年7月に寿にきた。来る少し前に祥雲荘というドヤが火災にあった。寿生活館という市の相談所の職員たち有志と火災にあった居住者たちとドヤの経営者たちに対して補償を求める活動を始めており参加した。交渉を後ろの方から眺めていた。一定の成果を持って活動はおわるが、寿で暮らす人たちの様々な思いや大変さに触れて、積極的に活動し、心の中では楽しみにまちの中に入っていける経験をした。

  
 
 
【高沢】
 寿に来た経過を発言していただいた。その後、何に力点を置いて活動してきたかを伺いたい。
加藤さんは、夜間学校や識字学校というところから。特に「自由に語る会」で、困窮者が自ら物語っていく時に出てくる言葉はものすごく味わい深かったり、特に何事もない自分だと思っている人たちが実は自分の語るべき人生に気づいていく作業は生きていく上で重要な作業だと、そういうものとして始まったことを想像する。「自由に語る会」から夜間学校や識字学校にいく過程を話していただきたい。
  
 

【加藤】
 最初は、寿の職員になって相談をいろいろと受けるが、まだ30歳。相談する人達は40、50、60とかもっと上の人もいるわけで、人生の大先輩。若い僕にいろいろ話をする中「なんだこいつわかるのかな」と忠告も受けたり、お叱りもうけたりする。その中に、非常に魅力的なおじいちゃんがいた。Mさんという方、その方がいろんな話をしてくれた。

 「俺んとこの部屋にも来いよ」と誘われて、彼の部屋を訪ねたら、いろんな漬物やなんかがいっぱい作ってあるし、部屋にいっぱい本がある。当時『朝日ジャーナル』とか、『世界』とかすごい本がいっぱい置いてあって、いろいろ話をしてくれる。「お前憲法の中身をちゃんと知っているか?何条あるか?」という話から始まる。聞いてみたらその方は大学の法学部を出ていて、弁護士さんとかになりたかったが、いろんな事情があって全部それが挫折して、寿町に来ていて日雇いもしているし、体も壊して生活保護を受けている。

 「おまえ、このまちを知りたかったら、ここで仕事をしたかったら、ここにいる人たちの本当の生活を知らなきゃいかん」「そのためにはドヤに住め」って言う。「あ、そうか」と、このまちで相談をするっていうことは、このまちの人がどんな生き方をしていて、どんな思い持ってるかということを知らなきゃいけないんだけど、学校の教師も通ってきてた子ども達と一緒に暮らしていたわけじゃなかった、生活の実態を知らないままではいけないと。それで僕も6月に「丸井荘」に部屋をかりて住むことになった。

 夜泊って、朝一緒に起きるわけだが、朝、みなさん早い!4時とか・・。5時じゃ遅いくらいで仕事に行く。食事の支度をして、洗濯物したり干したりとかいろんなことをやっている。そうすると、一日の仕事が終わって体が汚れるからお風呂にいくとよく知っている人たちがみんな入ってて「お~、お前、なに、来たのか~」「じゃ洗ってやろうか」と言いながら、いろんな話をする。生活を共にしはじめると今まで見えなかったことがどんどん見えてくる。

 中には、家族で住んでいる人も。近くに住んでいたえのもとさんは、奥さんが「兄ちゃん、ちゃんと食べてんか?」「うちであまってるから持っていってやるよ」とご飯を持ってきてくれる。こういうつながりがどんどんできてきた。寿を知るということで言えば、Mさんから始まり、いろんな方がいるんだということを知る。

 「地域をしるためには一緒に住め、一緒に暮らせ」と言われたことが、僕のスタート。そして一緒に暮らし、いろんな方たちと出会うことになる。仕事が夜9時に終わって部屋に帰ってくると、僕が泊ってることが段々と知られてくる。みんなが訪ねてきたり、夜の相談が続くということがあったり、食事に外に出るとそこで出会あった人と話がはじまって、まちのなかのいろんな悩み事がどんどんわかるようになり、共通の悩みがあること、同じようなことでみんなが苦しんでいることがわかった。

 お金がない、ドヤに泊れない、病気になった時医者になかなかかかれない。その中に、字が書けない、読めないで困ってる、書類もらったって書けないよという悩みがあることがわかった。みんなでそういった話を1回して、できることはみんなで実現して、行政が応援してもいいし・・・そんなことができたらいいなぁと思って、Mさんにも話をして「勉強会みたいなことをやりたいんだけど、喋ってくれる?」と聞いたら、「いいよ」と返事があった。
 「自由に語る会」は、最初はここにある建物(旧センター)の広い場所と、生活館の3Fも借りた。夜の勉強会のチラシも配ったり、声をかけたりしたが「勉強会なんて、俺たちに関係ねぇや」といろいろ言うが、Mさんは「憲法をしらないとみんなだめだ」と言う。彼を講師にして憲法の話を1回目やった。

 今でもよく覚えているが、「憲法とはなにか」という話をするため集めたら、中福祉事務所の方職員とか保健所の人も来てくれて、最初20人くらいだったと思う。まちの人は労働者が圧倒的に多いが、お母さんも一人来ていた。Mさんが、「憲法を守るのは誰か~!」っていきなり言うと、みんな「国民じゃねえの」「俺たちじゃないの?」「私たち国民が守らなきゃいけないじゃないの?」。すると、彼が「違うんだ!これを守るのは公務員だ」「国会の議員だ」と言う。「政治を実際にやってる人たち、世の中を指導してる人たちが憲法知らなきゃいかん」。国民は何をするかというと、それをちゃんと守ってるかどうか、憲法守ってるかどうか見守って、おかしいじゃないかと注意したり、やれって言うのが国民のやることだと説明する。そして、「あ、ここに役人がいるな」。丁度、福祉事務所の若手の職員がいて「お、兄ちゃん、君は公務員だな。憲法全部知ってるな? 何条あるんだ?」職員が「え~と、100・・・」と戸惑うと「知らんのか~」とこうやる。勉強会は1条から始まった。
 Mさんが始めた憲法議論は、「憲法で一番大事なことは主権在民」「一人一人が大事にされ一人一人が主人公になる、そういう社会を作るのが憲法に書いてある、第1条からそれが始まっている」。一か月くらいで、100何条やった。

 そして、寿のおじさん、おばさんたちはいろんな話を知っているんだけど、お互いのやってること、知ってることを伝え合う必要があるし勉強もした方がいいということで「寿夜間学校」が生まれた。「夜間学校」作る時も何学校にするか話し合った。学校はいやだって言う、先生もいるし、学校なんて名前はいやだって。「寿自由大学」って名前がいいなと思っていたが、「大学なんて恥ずかしい」「じゃ小学校か?」「小学校なんて恥ずかしい」で、夜やるから、「夜間学校」になった。校長や学生の名刺も作った。当時は今のようには作れないので、いろんな活字なんかをくっつけたりコピーしたりした。みんな面白がって、自信もって勉強した。

 その後、人気になっていくのが自分史、自分の過去を語るプログラム。みんな恥ずかしがっていたけど。炭鉱で働いていて事故にあった人とか、戦争に行って仲間が死んだけど俺だけ残ったというおじさんとか、仲間同士で自分の体験を語る「私の自叙伝」の講座が人気になっていった。憲法から始まった勉強会が、福祉事務所の方に来てもらって障害者の法律のことや生活保護のことなどいろんなことを教えてもらう場になった。Fさんという方がいて、「身体障害者友の会を作りたい」っていう風に、勉強の場が一つずつうまれていった。
 
 
 

【高沢】
 自分史の話も非常に面白い。聞いていて自分のことを思い出した。当時、3歳の子を連れてここから徒歩1~2分のところに住んだが「外から戦いに来ている人って、信用されない?」ことを感じた。同じ小学校、同じ中学校に子どもを入れだすと声もかけてくれるし、運動会行きゃ喜んでくれるし、地域の中に自分が入りこんでいく作業はとても大事で、他所から戦いにいく運動ではないというのがあると思う。
 今度は村田さんから「寿で働きたいと思った」から始まって、特に寿福祉センターでのことなど、もう少し深掘りさせていただきたい。
 
  

【村田】
 ドヤの火災罹災同盟の活動に参加する経験も、僕にとっては寿で活動していくという核心を持てた活動だった。福祉センターの相談部門には診療所もあったのでさまざまな方がみえた。一番多かったのはアルコール依存症の方々。当時はアルコール依存症というより、アル中と言われていたが、私はアル中に詳しくなかった。
 酔ってべろべろになってくる方がいて、一番困るのは、泊るところがない、食事をできない、仕事にも行かれない、そういう話を丁寧に聞いていた。一方で、高齢者の方が当時は老人と言っていたが「俺たち老人の居場所がないんだ」。邪魔扱いされる、老人の方が言うには、「何をしてもらうっていうよりも、俺たちも何かをしたいんだ」と、そんな雑談の中で話を聞いた。

 診療所の医師と相談して、高齢者の健康診断を設けてまちの人達にチラシを出して高齢者の方が健康診断に来ていただいた。その時に、高齢者の居場所をつくっていこうという話があった。何十人か集まって、その話の中で老人クラブを作っていこうと。その流れで、「寿櫟の会」を発足することになった。その後、労働者・管理人など様々な方が集まり、ことぶき自治会が1968年の夏に活動が始められた。この活動は、現在も続いている。

 当時、寿町でアルコール依存症の方の支援をしているなかで、亡くなる人は多かったがよくなる人はほぼ0だった。そのような中たまたま、アルコール依存症から回復したアメリカ人の神父が訪ねてきた。その神父が、寿のアルコール依存症の人を私の施設(AA)に通わせてくれないかという話があった。
 最初は耳を傾けなかったが、自分たちだけではアルコール依存症の方の対応が難しかったため、AAのお話を聞くことにした。自助グループAAは、「自分を名乗らない(無名性)・組織化されない」という条件の下、アルコール依存症からの回復を図るものである。この条件が、寿町でアルコール依存症に苦しんでいる方が求めていることと一致していることが分かった。AAのシステムでは、自分のありのままで居られるということが大事になっている。一方で、寿町で活動する中で、住民の方それぞれが求めているニーズがあり、満たされていないということが分かってきた。そのニーズに応えるために、ありのままの自分が出せる場所として、寿夜間学校を設立した。ありのままの自分が出せる場所の提供という点では、AAと通じるところがある。

  
 
  
【高沢】
 自由があった寿町が生活保護を通じて役所との接点ができた等の変化が生じたが、生きる権利が保障されることになったことについてどう思うか。
  
 

【加藤】
 今の時代、社会全体が閉じ込められている、生きにくい時代のように感じている。沖縄にいた際に、生きるためには何が必要かを学んだ。食べること・住む場所・自分と一緒に生きる仲間。この3つを沖縄の人から学んだ。1974年から不況が始まり、寿町にも影響があった。その時に、こども食堂を始めた。そして、住む場所を提供するために生活館を開放した。自分たちで生きていくための仲間がいて、仲間たちで生きることを支えていくということを寿町で実感した。この3つの要素はこれから寿で活動をしていくうえでも大事なことだと思っている。

【村田】
 寿の町で私がこれまでずっと生活してこられたのは、寿の人たちから生きる力をもらったから。多くの人たちは、寿が終の棲家になっている人が多い。寿の町は、やりなおしや再挑戦を意識しなくても、生きることができる。寿は基本的に自由だと思っている。簡易宿泊所は、24時間出入り自由としている所が多い。一人でいる人間にとって、24時間出入り自由という仕組みがとても大事だと思っている。
 24時間出入り自由という仕組みは、日本の病院にしても社会福祉施設にしてももっと取り入れるべきモノなのではないかと感じている。退院・退所を自分のペースでできる。その原型は、寿町で実現できているのではないかと思う。このような環境下で、皆が安心して生活することができているということが1種の証明になっている。

  
 
 
【高沢】
 寿町に関わった方の中で、生きる力を感じた具体例を教えてほしい。
 
 

【村田】
 AAの事例だが、回復した人よりも苦しんでいる人(新しい仲間)を大事にする。寿でも、様々な力をいただいている。万引きをしながら、80歳まで生きたおじいちゃんもいる。周囲の人は、彼が万引きの常習だということを知っているが、彼を責めることはない。このような点に、寿町の優しさを感じた。
 寿町は、どのような人でも受け入れてくれる。そして、どのような人でも存在し続けることができると感じている。

【加藤】
 暮らしている中で、生き抜いていかなくてはならない。そのために、皆が支えあう仕組みが必要になった。どこにも行き場所がなくなった人が生き抜いていけるというのが、文化として存在している町である。現代社会は、非正規が中心になって、生きづらい人が増えてしまった。ある意味、寿町は現代の社会に対してモデルになるのではないか。
 相手と自分が対話するということは、現代の社会ではあまり見ることができなくなった。寿町では、自然に人々が集まっている姿を見ることができる。生きていく場としての、寿町の在り方が今後求められるのではないかと思う。
  
  
 

【高沢】
 これからの社会に贈る言葉を2人からいただきたい。
  
  

【加藤】
 人はみんな違うということが前提。それが前提になってできることが増えていく。多様性そのものをお互いが共有しあって、認め合いながら生きていくことが寿の文化で1番大事にすべきことだと思っている。 

【村田】
 今、そこに生きている・そこに存在していることが最も大事だと思っている。それを自分が忘れてはいけない。

 
【高沢】
 ありのままでいい、立派に生きる必要はない、ということをより強く社会に発信していくことが大事だと改めて感じた。
 
 

 
 寿の魅力とはなにか、「無名性の中、雑談の中のありのまま」「既成の枠をつくらない自由さ」「仲間の支え合い」という大きく3つのまちの特性が語られました。この文化・風土の中で築かれた人々の交流の「軌跡」の中で、実際に起きた「奇跡」があり、そこには、生きる力や知恵、優しさや面白さがあったことにも気づかされ、その過程で連帯の力がつながっていったことを知ることができたと思います。

この配信の様子は、YouTubeに保存されていますので、いつでもご覧いただけます。
→ 3/6の配信

 
 
 

ゲストプロフィール

◆加藤 彰彦 (野本 三吉)
(元寿生活館職員、元横浜市立大学教授、元沖縄大学学長・同大名誉教授)

 1972年から10年間、30歳代の時に寿生活館の生活相談員として勤務。寿地区で暮らし、公私にわたり日雇労働者と対話する中で「寿夜間学校」「寿識字学校」の開校、「寿住民懇談会」結成などに尽力。寿の人々との交流の熱い記録は、作家ペンネーム「野本三吉」による『風の自叙伝』『裸の原始人たち』『寿生活館ノート-職場奪還への遠い道』に詳しい。小学校教員、児童相談所ケースワーカー、大学教授などをとおして「子ども研究」「共生のつながり」を求め実践し続け、現在は田谷長生会(老人会)を運営する。2018年に新刊『まちに暮らしの種子を蒔く』を出版。

◆村田由夫
(寿地区自治会長、NPO法人市民の会寿アルク理事長)

 長年、寿福祉センターの相談員として寿地区のアルコール依存症患者とともに歩む。地域連携の力となる「寿地区自治会」発会に尽力。現在も自治会運営を始め、寿福祉センター保育所事業、NPO法人寿クリーンセンターの福祉作業所運営、アルコール依存症者の回復援助の活動など、寿地区に暮らす人々へのゆるぎない愛着を複数の現場で示し続けている。著書『良くしようとするのはやめたほうがよい』にて当事者支援の原点を問いかけ、昨年10月には『寿で暮す人々あれこれ』にて、忘れえぬ多彩な出会いと寿地区への思いの記録を発行した。

◆高沢 幸男
(寿支援者交流会事務局長)

 1990年夏(大学1年生)より寿町に関わるようになる。92年12月28日に横浜駅で駅員による野宿生活者排除を目撃。定期的な支援の重要性を痛感。翌93年1月に「寿や路上と市民社会をつなぐゆるやかなネットワーク」として設立された寿支援者交流会の結成に参加。現在も野宿生活者の訪問活動を継続中。野宿経験者などの個人史聞き取りを20年以上に渡って行っている。また、寿地区内の様々な団体で構成する寿越冬闘争実行委員会や寿夏祭り実行委員会の事務局長も務めている。

 
 
 

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA


このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください