【EVENT REPORT】「ことぶき協働フォーラム2021」開催しました! ②トークセッションAのご報告

この配信の録画映像は、ことぶき協働スペースYouTubeチャンネルでご覧いただけます。
https://youtu.be/eKGXgEOm1R8?t=5523

セッションの趣旨

今年度ことぶき協働スペースは、寿のまちに所在する障害者福祉作業所・事業所と協働して展示販売を開催しました。
ことぶき協働スペースを訪れる方々に作業所の存在と、障害者の就労支援を知っていただく一助になればとの願いから始まった本企画は、地域の皆さまのご厚意に支えられ、この1年間で6つの作業所との協働に繋がりました。

企画をとおして私たちは作業所の職員や利用者(障害当事者)と話すことが増えました。
作業所が抱える課題(工賃・作業の受注・職員のご苦労など)、障害者の「働く」をとりまく数々の障壁に気付かされるとともに、そもそも「働く」とは何か?という根源的な問いを見つめ直す契機になりました。

私たちの学びをフォーラムを視聴する皆さまと共有したいと考え、トークセッションAは「障害があっても活躍できる社会を目指して」と題して(就労に限らず)広く障害者の社会参加を考えていただく機会としました。
ゲストには横浜市精神障害者地域生活支援連合会(市精連)の代表を務める大友勝さん横浜市社会福祉協議会(市社協)障害者支援センター事務室長の大貫義幸さんをお招きしました。
長年にわたり横浜市の障害者福祉に貢献してこられたお二人です。

大友 勝
NPO法人横浜市精神障害者地域生活支援連合会代表

1970年頃から10年間日雇い労働に従事。81年より(財)寿町勤労者福祉協会職員。この間、寿地区住民懇談会代表、民生委員等を歴任。85年精神保健福祉を考える市民の会野草の会に参画。87年より横浜市精神障害者地域作業所連絡会代表を務め、この間に横浜市初の精神障害者グループをはじめ多くの地域作業所の設立・運営に携わる。97年全国精神障害者地域生活支援協議会を設立し代表を務める。日本精神保健福祉連盟理事、全国こころの美術展企画運営委員等を歴任。

大貫 義幸
横浜市社会福祉協議会 障害者支援センター事務室長

1982年に横浜市入庁。保健福祉分野を中心にキャリアを重ね、鶴見区福祉保健センター長、健康福祉局健康安全部長などを歴任。定年退職後の2019年現職に就任。地域訓練会、地域活動支援センター作業所型等への運営支援、障害者作業所共同受注事業(わーくる)の運営、障害者研修保養施設横浜あゆみ荘の運営、障害者後見的支援制度の推進など、障害者の社会参画事業に精力的に取り組んでいる。

作業所インタビュー

当初6作業所の職員による座談会を企画していましたが、昨今のウイルス感染状況に鑑み、個別インタビューへ変更することになりました。
1作業所あたり約3分間という短いインタビュー映像ながら、現場を知る職員・利用者から語られる話には課題と気付きがぎゅっと凝縮されていたと思います。
皆さま口を揃えて話されていたのは、作業所が障害者の「居場所」であるということ。
作業所は就労支援の場であると同時に(特に就労継続支援B型や地域生活支援センターにあっては)生活リズムを整える場、社会と繋がる場という点を重視しておられることが分かりました。
それゆえコロナ禍においても、職員の皆さまは作業所の継続に尽くしておられました。

「利用者の希望に合った作業の提供」も共通した話題でした。
障害の程度や希望に合わせた作業を提供して、利用者ひとりひとりが働きがいを持って作業に取り組むことを大切にしているのが伝わるインタビュー映像になりました。

【インタビューにご協力いただいた皆さま】(出演順)

地域生活支援センター「風のバード」
NPO法人空
遠田光義さん(利用者)
就労継続支援B型「ギッフェリ」
社会福祉法人恵友会
関直起さん(施設長)
地域生活支援センター「アルク・ハマポート作業所」
NPO法人市民の会寿アルク
戸塚一三さん(施設長)
就労継続支援B型「ろばの家」
NPO法人ろばと野草の会
松久保有紀さん(利用者)
就労継続支援B型「ろばの家」
NPO法人ろばと野草の会
北村清一さん(利用者)
就労継続支援B型「百合の樹」
NPO法人ろばと野草の会
飯田杏奈さん(職員)
就労継続支援B型「ぷれいす」
NPO法人寿クリーンセンター
鶴見福司さん(職員)

横浜市における障害者の趨勢

続いて大貫さんから、横浜市における障害者数の推移と障害者支援センターの取組についてご講義いただきました。

全国的に人口減少が進み、横浜市も2019年をピークに人口減少に転じたところですが、一方で障害者は過去5年間で1万7000人増加しており、この先も増加が見込まれるそうです。
高齢化に伴う身体障害者の増加はイメージしやすいのですが、若い世代における知的・精神障害者の増加は意外な印象を受けました。
長らく障害と認められなかった「発達障害」等がきちんと障害と認められはじめたこと
が関係しているようです。

障害者支援センターの取組として、作業所で請け負う作業を共同受注する「わーくる」と、作業所製品の通信販売「ハートメイド」事業が紹介されました。
作業所の多くが少ない資本と職員数で、運営から作業の受注、製品の販促までこなさなければならなかったところ、これを支援するわーくるとハードメイドは画期的な取組だと思います。

よこはま障害者共同受注総合センターわーくる
https://www.yokohama-juchuu.jp/index.htm
ハートメイド(販路拡大事業)
http://www.yokohamashakyo.jp/siencenter/hanro/index.html

トークセッション

ここ寿のまちには、障害をはじめさまざまな生きづらさを抱える方々が暮らしています。
お招きした大友さんと大貫さんは、かつて行政側の職員として、その後はそれぞれのお立場で寿のまちに関わってこられました。
寿のまちが日雇い労働者で賑わった時代から長い経済不況を経て、福祉のまちに変遷していく姿を見続けてきたお二人。
トークセッションでは寿のまちにおける障害者の社会参加を中心にお聞きしました。

大友さんが寿生活館の職員になったきっかけ

大友さんは1970年頃、港湾労働者として寿のまちにやって来られました。
1975年から5年間続いた寿生活館の自主管理(横浜市の施設である寿生活館を市民団体が占有した)の時期に、当時寿生活館の職員だった加藤彰彦さん(=野本三吉さん)の下で働いたそうです。
こうした縁があって大友さんは1981年に勤労者福祉協会(現・横浜市寿町健康福祉交流協会)の職員となり、加藤彰彦さんらと共に現在の寿地区の礎を築いてこられました。

障害者作業所を立ち上げたのは

大友さんは、寿地区に幾つもの障害者福祉作業所を立ち上げたメンバーのお一人ですが、このまちに作業所を作ろうと思ったきっかけについてお聞きしました。
加藤彰彦さんが仕掛けた「寿夜間学校」活動の一つとして、寿町に身体障害者の作業所「寿福祉作業所(現・ことぶき福祉作業所)」ができたのが1983年のこと。
これをきっかけに、たくさんの障害者作業所の立ち上げが始まりました。
大友さんは1984年に発覚した宇都宮病院事件(職員の暴行により精神障害者2名が死亡した事件)に衝撃を受け、精神障害者の憩いの場「はだしの邑(1985年)」を作ろうと思われたのだそうです。

「障害者の居場所、活躍の場、仲間づくりのために作業所を立ち上げた」と大友さん。
基調対談で加藤さんから「人が生きるために必要なものは『ともに生きる仲間』」というお話がありましたが、大友さんも「精神障害者の地域生活支援にとって必要なのは『医・職・住・仲間』」だと述べられました。

これからの寿のまちを語る

大友さんは20余年にわたる寿のまちでの活動を「太平洋に小石を投げ入れてコミューン(共同体)を作ろうとするような壮大な苦労感があった」と表現されました。
それでもこの地に多くの作業所、学童保育、町内会館、公衆トイレ等、現在の寿のまちにも残る数々の功績を為し遂げられ、さらには全国の精神障害者に地域参加の機会を創出してこられたことに、ただただ敬服するばかりです。

大友さんは寿のまちを「福祉のまち」と呼ぶことに違和感を唱え「生活者のまち」と呼ばれました。
もちろん生活者とは加藤彰彦さんが、30年間にわたって寿のまちに暮らす人々の人生を記録し続けた「個人誌・生活者」から借用した言葉です。
人は誰しも労働者や生活困窮者あるいは障害者である以前に一人の「生活者」であると大友さんは仰いたかったのだと思います。
「地域社会の中に障害者の活躍の場―イベント、まち清掃などのボランティア、工芸品を作ったりや絵を描いたりする場ーが公的に作られたらいい。作業所は点。今後はこれを面にしていく」と述べられ、このまちに住む方々が地域に関わる機会を拡充する必要性を説かれました。

大友さんの目には、新しい健康福祉交流センターと今の寿のまちの風景が「夢のような感じ」に映ったといいます。
「私が思い描いた機能を持ったセンター。ここの人たちがどう働いていくか非常に期待している」との言葉に、私たちの責務を再確認しました。
ことぶき協働スペースが今ここで活動できているのは、大友さん、加藤彰彦さん、村田由夫さん、高沢幸男さんらをはじめ、これまで寿のまちを支えてきた方々の積み重ねがあったからにほかなりません。

大貫さんにも、寿のまちで障害者福祉を考える意味についてお聞きしました。
市社協の職員として作業所の職員や利用者と話す機会がある大貫さんによると「もっと働きたい。データ入力のようにPCを使った作業も挑戦してみたい」と就労支援に力点を置く作業所がある一方で「利用者の生活支援を中心に続けていきたい」という作業所もあるそうです。
障害者総合支援法以来、就労支援(移行支援、A型、B型など)に変更する事業所が増えていますが、横浜市としては無理に事業変更を押し進めることはせず「地域で暮らす」という生活支援の場、作業所を大切にして然るべきだと仰られました。

寿地蔵が帰ってきて新しい寿のまちは完成した

「最後に一言」と大友さんの口から語られたのは寿地蔵の話でした。
寿のまちには今も昔も身寄りのない方が多く、そうした方が亡くなったあとも寂しくないようにと、寿地蔵は1975年からこのまちを見守り続けてきました。
健康福祉交流センターの建て替え工事にともない青葉区の寺院に一時保護されていたのですが、昨夏このまちに戻ってきました。
大友さんから寿地蔵に関するこんなエピソードが紹介されました。

夏祭りのとき寄付者ご芳名を書いていたら、ある「組」から5万円の寄付の申し出があって「一番目立つところに書いて貼っとけよ」と言われた。
困り果てて自治会長の秋葉さんと相談し、組員の方にはお菓子を買ってお地蔵様にお供えしてもらうことにした。
子どもたちはお地蔵様からお菓子を受け取ったということにして、丸く収めることができた。

今では笑い話ですが、当時の大友さんにとっては緊急事態宣言だったことは想像に難くありません。
大友さんは「寿地蔵が帰ってきて、ようやく新しい寿のまちが完成した」と感慨深そうに仰られました。
「寿のまちでお地蔵さまが果たしてきた役割は大きい」と寿のまちの共生を守ってきた寿地蔵への思いを語ってくださいました。

セッションAを終えて

ゲストのお話や作業所インタビューをとおして、多くのことを学ばせていただきました。
セッション開催以前の私は「どうすれば障害者が(健常者の)社会に参画できるか?」「がんばって一般就労を目指してほしい」という視点で考えていました。
そこには健常者の社会こそが基盤だという固定観念や、障害者も一般企業に勤めて精一杯働くのが幸せだという浅はかな善意があったのだと思います。
もちろん働ける方、働きたいと思っている方にはそうした機会が保障されなくてはならないでしょう。
しかしそれ以外の社会参加の在り方もまたひとつの正解なのだと、考えを改めることになりました。

「誰もが活躍できる社会」とは、障害の有無、社会的強弱、支援する側・される側といった概念を超越したところにあるように思います。
「生活者」一人一人に唯一無二の人生があり、そこには勝ち負けも優劣もない。
それぞれの生き方が無条件に尊重される社会。
寿のまちはそれを何十年も前から体現してきたのかもしれません。
だからこそさまざまな人々が寿のまちを訪れ、ある者は立ち直ってまちを出ていき、ある者はここを終の棲家と決めて根を下ろすのではないでしょうか。

フォーラムをご視聴くださった皆様の頭の片隅にすこしでも何かを残せたなら。
このセッションは意義あるものだったのではと思っています。

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